「名古屋各局は貴重な機会を放置していないか」~トリエンナーレ事件

  • 番組名:各局ニュース・情報番組
  • 放送局:在名各局
  • 放送日時:ニュース・情報番組放送時間帯

「愛知トリエンナーレ」で起きた「表現の不自由展 その後」については継続してニュース報道はされてはいる。平和の少女像や昭和天皇の写真焼却などを巡り、河村名古屋市長と大村愛知県知事の対立は、表現の自由、芸術の自由、公的施設で行う芸術の限界の有無など、多くの問題を含んでいた重要な出来事だった(今も)。

この問題について、在名民放各局の報道姿勢はどうだったか。全部をつまびらかに点検したわけではないが、私には非常に食い足らなく、不満が残っている。地元で起きた事件、しかも名古屋と愛知県の首長の意見が真っ向から対立している状況は、地元放送局に取って決して看過すべき問題ではないはずだし、ある意味テレビ的に視聴者に訴えやすい状況だったはずだ。

確かに、ストレートニュースでは取り上げているし、(午後の情報番組の取り上げ方はおよそ「報道的」とは言えないし、この問題は何故か積極的に取り上げる気配がない)そこそこ長い時間を掛けて取材はしているのは分かる。だが、地元局として、自身の「表現の自由」にも関わる問題を深堀りするチャンスを放置していいのだろうか。その辺り非常にもどかしい。

私自身、芸術表現の限界はどこにあるのか、全く無いのか、税金を賛否ある政治的芸術に使うことがいいのかどうか、などについては整理し纏めきれていない。多くの市民が曖昧な気分でこのニュースに接しているのではないか。

その問題をストレートニュースと、コメンテーターに喋らすことで済ませていいのか。ここで放送局としての様々な意見を提示し、問題の在り処を示し、視聴者に考えを促すことが役割ではないのか。就中、今回の問題がどこにあるのかを整理・明示し、論点や課題を明らかにする務めがあるのではないか。「脅迫によって中止することの是非」「検閲にあたるのか」「どこまでが芸術なのか」「芸術は政治的メッセージを含んでいていいのか」「そうした<芸術>に公的資金(つまり税金)を使うことの是非」「表現の自由はどこまで許されるのか」などなど、今論ずべき大事なテーマがたくさんあった。言論機関でもある(だと信じる)放送局が自身に跳ね返る問題でもあるこうした重要な問題を看過している状況は健全とはいえないのではないか。韓国の「タマネギ男」が滑ったころんだをやるより十分価値があると思う。

せっかく地元の問題、スタジオに河村市長と大村県知事を呼んできて対決させたらどうだ。1つの局で出来ないのなら、4局、5局合同のシンポジウムを開催するとか工夫は出来ないのか。なんならこうした芸術や報道に進歩的なフランスまで行って取材してくるくらいの気概はないのか。そして彼我の落差は那辺にあるや、を明らかにしないか。

昨今の忖度報道を見ていると、どうも「触らぬ神に祟りなし」状態に陥っているような気がしてならない。放送法第四条、国民の間で大きく意見が別れる問題については平等に扱うべし、の前にビビっているのだろうか。偏向報道といわれネットで炎上することを恐れているのか。トリエンナーレに協賛している企業に忖度しているのか。確かにデリケートな問題であることは理解できる。が今の日本のマスコミを覆う「ものいわば唇寒し」「事なかれ」「長いものには取り敢えず巻かれておく」現状は、寂しいを通りこして、背筋が凍る思いだ。テレビ報道に明日があるのかないのか問われている。ネット記事の焼き直しメディアに成り下がるのか、地方局報道は。

市長と県知事がだめなら、津田大介氏にインタビューを試みるとか、東工大の中島岳志教授と神奈川県黒岩祐治知事とを対論させてみるとか、地元局ならではの問題意識を提示してもらいたいと強く思う。ただでさえ、各局夕方のニュースが、情報バラエティ化している昨今(これについてはまた別項を構える)「骨太で芯の入った報道」を望みたいところだ。今からでも遅くない。ドキュメンタリーとして取材している局があるとしたらその出来上がりに期待したいところだ。

トリエンナーレの実行員会には地元の中日新聞社とCKも入っている。多摩美大学長もいる。取材対象者はたくさんあるはずだ。今回の事件の検証委員会の中間答申が9月半ばにあると聞く。そのタイミングで特集を組むような気骨のある局が現れることを切に願う。そうでなければ「報道の不自由展」を他者に開催されてしまうような事態になってしまうかもしれない。(KING)