「バヤルタイ 〜モンゴル抑留 72年越しのさようなら〜」(中京テレビ:報道)

  • 番組名:「バヤルタイ 〜モンゴル抑留 72年越しのさようなら〜」
  • 放送局:中京テレビ
  • 放送日時:2019年9月8日(日曜)午前1時05分~

中京テレビが3ヶ月に一度、「土バラ」枠で放送している「真夜中のドキュメンタリー」の8本目。中京テレビで報道記者として働くモンゴル人女性ホンゴルズルさんは、大学を卒業するまで暮らした母国モンゴルに存在した「戦後の日本人抑留」という事実を知った。そして抑留者や遺族の集まり「モンゴル会」を取材中一人の老人と出会う。彼に密着しながら、高齢となった彼の最後のモンゴル墓参に同行し、男性の思いと記者としての自分の気づきや発見を綴った作品だ。

タイトルの「バヤルタイ」とはモンゴル語で「サヨナラ」という程の意味だが言葉の持つ含蓄は深いという。

全体として見やすい構成で、ホンゴルズル記者が知らなかった母国での日本人抑留中の出来事については、視聴者も(私も)知らなかったことが多かっただろうし、気付かされることが多かった。最近まで社会主義国であり、墓参団の入国が許可されたのは1975年だったという。戦友との別れから28年近く経っていたのだ。

番組は友弘正雄さんという94歳の老人の紹介から始まる。普通の元気な老人かと思うと実は彼の両足はヒザ下から無い。義足なのだ。そこからタイトルまでがアバンとして短く紹介されていく。そして本編へ。記者の自己紹介から2年前にホンゴルズル記者が靖国神社の「モンゴル会」で初めて友弘さんと出会うシーンへと移っていく。このところで筆者は時制の表現をもう少し丁寧にしておたほうが良かったのではないかと感じた。

番組冒頭は今の友弘さんの姿。記者が初めて出会ったのは2年前のことだ。タイトル明けは2年前の「モンゴル会」のシーンだからそのシーンの冒頭で「友弘さんと私が出会ったのは今から2年前に遡る・・・」という自らのナレを最初に入れておいたほうが時制の認識がはっきりしたのではないかと感じた。そうしたコメントを置くことにより番組は更に丁寧さと理解しやすさを生むと思う。

番組はホンゴルズル記者の「自分が知らなかったモンゴルでの日本人抑留」へと思いに突き進んでいく。友弘さんが歌を披露し、記者と話し、次にモンゴルへいくときは同行させて、という辺りで、ああ冒頭の光景は今の友弘さんだったのだな、と気がつくとい構図ではないか?細かいことを最初に指摘してしまったが、現在と2年前と戦後のことという時制を整理しストーリーを整然させて視聴者に理解して貰う工夫をディレクターは惜しんでないけないと思う。

さて、本編では友弘さんが「最後の墓参」と言い切るモンゴル行きに同行するシーンとなる。そこでは主にホンゴルズル記者が友弘さんに同行することで発見する様々なことへの驚きが綴られていく。今のウランバートルに残る公的な建物の多くが日本人抑留者たちの手で作られたこと。記者が卒業した国立大学もそうだった。またそのことを学生が知らないという現状。それらの建物を建てたり、その他の工場や工事現場で食糧事情の悪い中働かされ少なからぬ人が故郷に帰らないまま死んでいったという事実が明らかにされていく。公文書管理庁では日本のテレビとしては初めて抑留者たちの動画が発見されるという出来事も紹介される。

さらに友弘さんがどうして両足を切断しなければならなかったかが語られていく。20歳だった友弘さん、シベリアからモンゴルへと移送されるとき重度の凍傷を負った。ウランバートルの病院で両足を日本の軍医(彼らも捕虜)によって切断される模様は直木賞受賞作家・胡桃沢耕史氏の「黒パン俘虜記」にはっきりと記載されていたのには驚いた。(胡桃沢氏もモンゴル抑留者だった)この本の内容は、友弘さんの証言を強力に補強して印象的だった。このパートがあるとないとでは大きな違いだろう。

友弘さんら抑留者は帰国して後、モンゴルへの恩返しとして社会主義崩壊時に多く出たストリートチルドレンやマンホールチルドレンらを保護する孤児院を作った。今はもう運営されていないが、後半ではこの話と当寺孤児院で育ちその後普通の暮らしが出来ている女性との再会を綴る。

そしてラスト、友弘さんはモンゴルの慰霊碑に向かい戦友に最後の呼びかけをする。「日本に帰ろう」と。

作品全体を通し、筆者も知らなかったモンゴル抑留者の話、彼らがしたこと、されたこと。彼らの置かれた環境などを知ることが出来たことは大きな果実だった。そしてホンゴルズル記者も気づきと自己再発見の取材だっただろう。

この番組で筆者なりに気づいた点を上げたいと思う。さきにこまごまと書いた冒頭部分での時制の整理もそうなのだが。まずモンゴルに何故日本人抑留者がいたのか、という事情はモンゴルの歴史学者が説明してくれたので分かったが、1947年に引き揚げてきたのはどういう経緯があったのか、を軽く触れておくほうが理解が深まったのではないか。また、モンゴルでは日本人抑留者の話は学校でも教えられないとの説明に対し、記者本人も学校で教えられていないという点の「なぜ」を突っ込んでもらいたかった。

友弘さんは94歳だが話す内容もはっきりとしていて取材対象に恵まれたところはあろう。彼は偽らざる思いを正直に分かりやすく語ってくれていた。自分が足を失ったのは突き詰めればスターリンのせいだ、だが今それをいっても仕方がない、当寺のモンゴルはスターリンの言うこと聞かなければやっていけなかったと吐露する。これらを補強するコメントを歴史学者に事前に言わせておけば友弘さんのコメントを個人の思いに閉じ込めない広がりを持たすことが出来たのではないか、とも感じた。

友弘さんは両足を失いながら94歳の人生を行きてきた。普通ならば長寿でいいですね、と言われるのだろう。しかし友弘さんは長く生きた分、抑留中自分を支えてくれた人たち、彼の地で故郷に帰ること無く亡くなった人のことをずっと思い続けることで、長く長く続く辛い人生でもあったのだと胸がつぶれる思いがこみ上げた。それが彼をして40回にも及ぶモンゴル墓参を可能にするエネルギーではなかったか。

ホンゴルズル記者にとって自国と日本の関係で知らなかった大事なこと、学校でも教えられなかったことを学べた事、友弘さんとの出会いで学んだことは自分のアイデンティティを見直す面でも収穫は多かったと思う。ならば次に日本の戦後史でも闇に埋没していることはないか、過去の日本について教えられていないことはないかについて着目し、今回の経験を活かし外国からやってきた報道マンだからこそ見えてくることを取材対象として頂きたいと思うのだ。(KING)