「”焼き場に立つ少年”をさがして」(Eテレ:ドキュメンタリー)

  • 番組名:「”焼き場に立つ少年”をさがして」
  • 放送局:Eテレ
  • 放送日時:2020年8月8日(土曜)午後11時~午前0時

太平洋戦争終結75周年の今年、筆者は記憶に残る三葉の写真に接した。それぞれがメディアによる番組からであった。一枚目はNHK福岡放送局の若い女性ディレクターの手になるWEB特集(こういう手段があるのを初めて知った)「西鉄電車銃撃事件 犠牲者の名前を探して」に出てきた乗客としてアメリカ軍戦闘機の機銃掃射の犠牲になった若い女性の写真。二枚目はTBS「ニュース23」の8月20日の特集で放送されていた「母の遺体のそばに佇む少女」(彼女=龍智江子さん=奇しくも今年8月15日に90歳で亡くなった)の長崎原爆資料館の入り口に掲げられた大きな写真。そして三枚目が今回観たEテレのドキュメンタリー「焼き場に立つ少年」だった。

三葉の写真を元に作られた番組に共通するのは、その写真の人物が誰か?を追い、その過程で浮き上がる新事実と戦争の過酷さ、悲惨さを訴えたことだった。名前を特定するということの作業は、単に謎を追うだけではなく、かつてそこにそういう人物が生きていた事を確定することにより、戦争が無機質な事実では無く、生きた人間を抹殺したということを証明しそれを語り継ぐ大切さを語るのだ。また多くの戦争による非戦闘員犠牲者の象徴として捉えるべきだと訴えているように思えた。さらに先の大戦を実際に経験した貴重な語り部が少なくなり、すでにギリギリの時期に来ているということもある。メディアとして戦争の語り部を継承するためにも若い報道マンによるこうした番組作りは極めて貴重なことだと感じるのだ。

三枚目の写真については筆者は見覚えがあった。一躍有名になったのは2017年にローマ法王フランシスコが核兵器廃絶の象徴として全世界に配ったことからであろう。

NHK長崎放送局は原爆投下一ヶ月後に福岡に駐屯したアメリカ軍のカメラマン、ジョー・オダネルによって撮影されたこの写真について、どこでいつ撮られた誰なのか、について調査をした。その過程でさまざまな新事実が浮かび上がり、結論として多くの非戦闘員の命を奪った原爆と戦争の悲惨さを訴えた。

当時九州を管轄した米軍により撮影された写真は現在4000枚残されていた。番組は専門家の手を借りてその中からオダネルの撮影した127枚を特定(キャプションに記名があった)、その撮影日時からオダネルがいつ長崎に来て少年を撮影したのかを探る。一方でこの写真をカラー化。すると写真が反転していた事実が浮かぶ。さらに少年の目の中に出血痕が、また鼻孔に小さな布を押し込んだ様子が判明した。被爆治療に詳しい医師に訊くと、原爆投下後に爆心近くを歩き回ったことにより想定1グレイほどを被爆し全身から出血していたのではないかと推察したのだった。

一方、番組はオダネルの使っていたカメラを特定。単焦点のそのレンズがどういう画角で撮影したのかを3Dコンピュータを使って割り出し、撮影地点と撮影時の天気(フラッシュを焚いたと思われることから)を割り出す。更に少年の足元にある電線のようなものを、鉄道の信号用ケーブルと特定し、国鉄長崎本線沿線の長崎駅寄り、という地名まで探り当てることが出来る。さらに写真が撮られたと推察される場所には当時焼き場があったこと、加えてその地区には戦後、戦争孤児、被爆孤児を保護した養護施設があったことまで分かってくる。

番組は少年の写真を追う過程から、当時その養護施設で育った人物にインタビュー。当時の悲惨な状況の証言を得る事に成功した。(特に銭田さんの言葉、妹の死に対する涙が印象的だった)あの焼き場に立つ少年もこの施設にいたのだろうか。記録はないという。米軍カメラマンは軍務としての占領の様子や日本の軍備解体の様子を記録していたはず。その彼がなぜ少年を撮影したのか。127枚の写真を検証すると、長崎に行った時点から被写体に少年らの写真が多くなることを突き止める。そしてオダネル(故人)がかつて「アメリカ国民の間には原爆投下が多くの米国人や日本人を救ったという意見があるのは承知している。だが、原爆は何の役にも立たなかった。多くの市民を虐殺しただけだ」と語る証言を手に入れる。現場を訪れ悲惨な状況を目の当たりにした人だけが語ることが出来る重い言葉であろう。

「焼き場に立つ少年」は、亡くなった弟を背中に背負い、焼き場で順番を待つ。唇を一直線に噛み締め気をつけをする表情は、自分以外に弟を弔う人もなく、親兄弟もみな爆死しいなくなり明日からの生活について決心をした幼い決意が表れている。番組で証言した当時を知る被爆者は、当時の少年は皆このように生きるのに必死だった、緊張していなければ生きていけなかったと語る。また撮影者オダネルも帰国後の手記「トランクの中の日本」で、この少年の火葬に臨む様子を書き記している。(いつどこでとは書かれていない)

長崎放送局が3年がかりで取材したこの番組は、最新科学を駆使しつつも、足で稼ぐ地道な取材も重ねて、一枚の写真の後ろにある「戦争の悲惨さ」を具体的にあぶり出すことに成功していた。労作であり、力作だった。そしてそれらを制作したのが若手の報道マンであったのも貴重なことだ。先述のように当時を知る人はいつまでも生きていない。報道メディアは今のうちに戦争の実態を記録し、次に繋げる作業をしていかなければならない。

番組は以下のようなコメントで締めくくられる。「弟の遺体を背負い唇をかみしめる少年の姿は、戦争に最も翻弄されるのは誰なのか静かに問いかけています」。

今回敢えて全国放送されたNHK長崎放送局の作品を取り上げてみた。ローカルならではの視点と息の長い取材に着目したからだ。福岡放送局による西鉄電車銃撃事件もそうだった。長崎に本社を置く民放各社も同様なスタンスで日々取材にあたっているのだろう。戦争は広島や長崎だけで起きたのではない。このエリアでも原爆模擬爆弾(パンプキン)の投下や名古屋城爆撃、終戦間際の地方爆撃、「震洋」や「桜花」の事、戦争と自然災害などなど取り上げるべき、語り継がなくてはならない事象がたくさんあるはずだ。日々の報道ショーも大事だろう。一方でメディアとして語り継がなくてはならない事に対する取材も是非粘り強く続けてほしい。戦争だけではなく、災害や事件についても風化させてはならないと覚悟したらそれなりの覚悟を決めて番組を作り続けてほしいのだ。(KING)