番組名 :「権藤 ゴンドウ 雨、ゴンドウ
~壊れた肩が築いた“教えない教え”~」
放送局 : 東海テレビ
放送日時: 2019年12月28日(土)16:50~
2019年1月に権藤博氏が野球殿堂入りを果たされた。素晴らしいことだ。22歳で中日に入団し、スター投手として大活躍した当時の勢いを示す流行語が、この番組のタイトルだ。(直筆にまた味がある。)試合が雨天中止にならない限り、常に氏が登板していたということである。チームへの貢献度は計り知れず、沢村賞も受賞した。だが、本当の氏の人生は、肩が壊れてから始まった。
3年目から戦績を落とし、5年目から内野手に転向するも今一つ輝けず、在籍9年(31歳)で選手のユニフォームを脱いでいる。34歳で中日与那嶺監督に2軍投手コーチとして呼ばれるまでは、精神的にも経済的にも苦しかったという。43歳で1軍投手コーチ(近藤監督下)に就任してからは、消耗品とされる投手の命を伸ばすことに尽力した。「自身が3年目に挫折を味わったことがコーチとして生きた」と語る。
投手起用の考え方が近藤監督と合わなくなった氏は、その後(49歳)、近鉄1軍投手コーチ(仰木監督下)となり、翌年、チームをリーグ優勝に導いている。しかし、またもやその翌年、仰木監督との衝突から1年の契約期間を残して近鉄を去る。選手に寄り沿う男だった故のことだ。いずれのチームにおいても就任1年目で前年より防御率を上げているのだから主張したいことも多々あっただろう。
59歳でついに監督(横浜)となった氏は、「監督」と呼ばれることを嫌い、選手らに「権藤さん」と呼ばせている。皆に伸び伸びとプレーさせた結果、横浜スタジアムでは、念願の胴上げを経験することができた。
ここまでの話だけでもボスと闘い続けたサブリーダーの生き様が見事に結実している。ところが、まだ続きがある。
77歳の時、氏は侍ジャパン(小久保監督)に投手コーチとして呼ばれている。乱打戦となったゲームにおいては、長年の経験則を生かし、独特の投手采配に貢献した。高齢にしてなお、確かな出番があったということだ。このエピソードは、選手として太く短く生きた氏が、その後の苦労によってさらに大きな人間力を備えたという証である。
私の知る限り権藤氏は、華やかなパーティーの場では、いつも中心から離れた場所に立ち、若いスタッフと雑談などを交しながら周囲を見守っているといった印象だ。しかし、その存在感は大きく、以前から憧れの念を抱いていた。
人の痛みを知る大物の人生を落ち着いた口調で解説し、最後に「あなたという生き方は、いかがですか?」と本人に投げかけた語り(三宅民夫)も実に気持ちが良かった。
中島精隆