「新型コロナウイルス報道に思う その2」(在名民放各局)

  • 番組名:「新型コロナウイルス報道に思う その2」
  • 放送局:在名民放各局
  • 放送日時:2020年3月13日(金曜)夕方

(その1から続いています)

この日は各局苦労の跡が偲ばれた。こうした姿勢は今だけではなく常に持っていて欲しいと強く感じる。(報道マンなら言われずとも分かっていると思うが老婆心である)

この日、出色だったのはメ~テレの特ダネ。三重の感染者で大阪のライブハウスに参加した、と県から発表された女性が、本当はライブには参加していない、ライブハウスにはキャンセルに出向いただけで、中にも入っていない、という電話を局に掛けてきたのだ。報道はこの事実を本人との電話を録画して放送した。本人から番組に取り上げてほしいと電話があったのだそうだ。メ~テレと視聴者の信頼関係を伺わせている一面で素晴らしいと思う。(当然裏取りはしたのだとは思うが)情報の取り扱いを一つ間違うとこうしたことになるいい例だと思う。三重県は訂正しないというから驚きだ。局に望みたかったのは、情報の慎重な取り扱いを放送局の自分事としての発言が欲しかった点だ。

気になっている点を挙げたい。1つはコメンテーターと称する人たち。各局全国区のタレントらを並べてニュースに対するリアクションを貰っているが、午後のワイドショーならいざしらず、夕方の報道・情報番組に彼らは必要なのか甚だ疑問だと普段から感じている。特にデリケートな問題のリアクションを取る場合は本当に気をつけないと下手をすると偽情報を流すことになってしまう。特に18時過ぎのニュースゾーンは視聴率的にファミリー層狙いなのかもしれないが、グルメや街ブラなど情報系の企画は止めて、コメンテーター抜きでハードに迫ってもらいたいと強く思う。どうしても、というならせめてジャーナリストを据えて貰いたい。この日に関していえばCBCは後藤論説委員を出して、局の姿勢を打ち出していたのは良い判斷だった。必要ならこれでいいのだと思う。敢えて危ういコメントをヒヤヒヤしながら貰うよりよほど建設的だと思うがどうだろうか。

メインキャスターについても言いたいことがある。メ~テレは鈴木アナの、中京は恩田アナの立ち位置をチャラけたものからやや遠ざけている印象がある。この夕方の枠は情報と報道が混在しているので、いざとなれば大災害や大事件をとっさに報道しなくてはならないメインキャスターが、チャラけたネタを回しているの状態は信頼という点からすると極めて危ないと以前から感じている。特にCBCの大石キャスターは「イッポウ!」の頃(イッポウ3部)はハードなキャスター(親しみやすさはあっても)としての信頼感があった。しかし「チャント!」になってから、吉本ネタやグルメネタをコメンテーターやタレントアナと長時間一緒にやるので、彼の親しみやすがが逆に出てしまいやしないか危惧している。彼は器用なので何でもこなしてしまう。いざと言う時にチャラけた大石アナが邪魔をしやしないだろうか、と。チャラけたネタをやるなら、扱いを小川アナとか女性アナに任せて、一歩引いてコメントする立場にいるとかしたほうが絶対にいいと筆者は感じている。

もう一つ。日本人はその国民的メンタリティーとして「このご時世に」とか「国難だから」とか「難局に大同する」とかの同調圧力に弱く、ヘテロを村八分にする傾向があると感じている。先の大戦で国民は痛い目にあっているはずなのに、こうした国民性は2,3世代では直らないものなのか。号令に几帳面に従ってしまうヤギのような国民性をマスコミは警戒すべきだ。勿論行政警察等の権力側をチェックしていくのは当然のこと。異論を許さない風潮を警戒すべきであり、自らが音頭を取っていないか不断のチェックが必要だ。その点を鑑みるとき、今回の新インフルエンザ特措法の緊急事態宣言に対する民放のスタンスも呑気すぎると見えた。結局民放は指定公共機関にはしない、ということになったが、例えば時の権力者が気に入らない勢力の集会をコロナを理由に解散させることも出来てしまうこの法律を、自分事として放送していたとは全く思えないのだ。これはキー局も同様。筆者が知る限りでは唯一「報道特集」が企画していたくらいだ。コロナの前には視聴者にはあまり関係なさそうな情報だが、実は大衆にとってもとても大事な事を含んでいたはずだ。そのあたりの鈍感さ、なのか知っていてあえてやらなかったのか、には唖然を通り越して慄然とした。

いろいろと書いてきたが、現場は未体験ゾーンの処理を日々迫られ大変だということは理解できる。あまり暗い話題ばかりでは世の中一層閉塞してしまうから、ネタの並べ方、演出の手法などにも苦労が続くと思う。この日観た番組は、それなりに頑張ってアップツーデートな企画を追求していたとは思う。だが、だがきつい言い方になってしまうが「大変さ」は言い訳にはならない。こういう時だからこそ、報道の本分を思い起こし、「社会の木鐸」としての機能を果たすこと、権力の目が、大衆の目が曇ったと思ったら躊躇なく覚醒させる報道をすることを期待したい。ネット情報より、やはり地元の放送局の言うことは信頼できる、あるいはあのキャスターが言うんだから間違いない、と信頼されるような媒体であって欲しいと切に願っている。(KING)